目次
9月19日に判決!全国で報告会を!
東京地裁に厳正判決求め50,984筆の署名提出!:佐藤和良
佐藤 和良(福島原発刑事訴訟支援団団長)
東電福島第一原発事故で強制起訴された勝俣恒久元会長・武藤栄元副社長・武黒一郎元副社長ら旧経営陣3被告人の東電刑事裁判は、第一原発で最初の爆発が起きてから丸8年になる本年3月12日の第37回公判をもって、1年8ヶ月ぶりに結審しました。
2017年6月30日の第1回公判以来、争点の地震津波の予見可能性と結果回避可能性を巡り、証人尋問、被告人質問、被害者遺族の意見陳述があり、2018年12月26日の論告求刑では、検察官役の指定弁護士が業務上過失致死傷罪の法定刑として最大の禁錮5年を求刑、そして3月12日の被告人最終弁論を経て、永渕健一裁判長は、判決の言い渡しを9月19日と指定しました。
2012年6月の福島地検への集団告訴から始まった原発事故の責任を問う闘いは、いよいよひとつの結果が示されます。
私たちは、理不尽な被害を一方的に与えた東電福島第一原発事故という人災に対し、この国の司法が、きちんと責任を取らせる判断を求めます。
第37回公判での被告弁護人による被告人最終弁論は、欺瞞的で事実とはかけ離れたものでした。
曰く、国の地震本部の長期評価は具体的根拠の信頼性と成熟性がない、「計算結果の根拠は信頼できるものではなく、土木学会に再度検討を依頼して、その見解に従うことが適正な手順で、問題の先送りではない。事故を予測できる可能性はなく、事故を防ぐこともできなかった」「想定できない地震によって津波が襲来した。事故を防止できる可能性はなかった」と、改めて無罪を主張しました。
あまりの最終弁論に、検察官役の指定弁護士は、以下のように、異例の「弁護人の弁論に対する指定弁護士の見解」を公表しました。
『弁護人の主張は、要するに東側正面から本件津波が襲来することを予見できず、仮に東電設計の試算結果に基づいて津波対策を講じていたからといって、本件事故は、防ぐことはできなかったのだから、被告人らには、本件事故に関して何らの責任はないという点につきています。
しかし、被告人らは、東電設計の計算結果があるにもかかわらず、これに対して何らの措置も講じていません。土木学会に検討を委ねたといいながら、その後、何らの関心すら注いでいません。
何らかの措置を講じていればともかく、何もしないで、このような弁解をすること自体、原子力発電所といういったん事故が起きれば甚大な被害が発生する危険を内包する施設の運転・保全を行う電気事業者の最高経営層に属する者として、あるまじき態度と言うほかありません。弁護人は、「長年にわたって積み重ねられてきた判例学説によって画される犯罪の成立範囲の外延を踏まえ」ると、「業務上過失致死傷罪が成立しない」と主張していますが、本件のような原子力発電所事故に適用される「犯罪の成立範囲の外延」とは何かということが、まさしく問われているのです。』
4月21日、福島原発刑事訴訟支援団の「4.21厳正判決を求める福島県集会」が開かれました。集会では、4人の弁護士が「双葉病院の被害者について」「弁護側最終弁論への反論」「検察側指定弁護士の論告・求刑」「刑事裁判の意義」などを詳しく報告。被害者遺族の証言が読み上げられ、原発事故9年目の思いを郡山市や田村市、そして金沢市に避難した方の5人がリレートークしました。原発事故によって普通の暮らしが壊され、いかに放射線の被曝と向き合ってこざるをえなかったか、事故当時に妊婦だった方の生の声、切々とした訴えに、会場からは啜り泣きの声も聞かれました。
また、4月24日には、福島原発刑事訴訟支援団と福島原発告訴団の代表が東京地裁を訪れ、東京地裁刑事4部の永渕健一裁判長宛に「東京電力福島原発刑事訴訟 厳正な判決を求める署名」 5,160筆を提出しました。 2017年12月から始まった署名は、公判期日の度に計20回提出され、今回の提出で総計50,984筆となりました。
9月の判決に向けて、刑事裁判で明らかになった事実を伝える短編映画の企画も進んでいます。東京地裁に厳正な判決を求めて、6月から8月に福島県内はじめ全国各地で報告会を開催して多くの人々に訴え、世論を盛り上げましょう。9月上旬、厳正判決を求める福島から東京地裁までのリレーキャラバン大宣伝活動、9月8日には東京で厳正判決を求める大集会も予定しています。
変わり果てた環境で人の心身はどれほど健全を保てるのでしょう:渡辺ミヨ子
渡辺 ミヨ子(告訴人・福島県田村市在住)
私は、昭和17年、あの戦争が始まったばかりの時期に、阿武隈高地の、痩せた土地を少し耕す零細農家に生まれました。昭和のはじめ、日本は戦争ばかりやっていましたので、産めよ増やせよと、どんな貧しい家でも6、7人、10人以上も子どもがいました。
男の子はお国の宝と言われ、女の子が沢山生まれる家の母親は肩身が狭い思いで暮らし、男の子を沢山生んでいる人は威張っているように、子ども心に感じていました。
戦争が終わっても食料難が続いていて供出割り当てというものがあり、貧しい農家は、米は作っても家で食べる米も残すことができなく、麦は良い方で、ジャガイモや大根を食べていました。当時は幼児の死亡率が特に高かった時期でした。私の両親は無学でしたが、私たちに、嘘をつかない事、食べ物は少ないものでも皆で分け合って食べる事をきつく言っていました。親から教え込まれたのはその位でしたが、そうやって6人の子どもを1人も亡くさず育てたのだということを、私は身に染みて生きてきました。
私たちはいつも腹を減らして、満腹に食べたことはありませんでした。しかし裏山には春から秋まで山菜や木の実、沢山のキノコがあり、子どもは自分で木登りして採ってきて分け合いました。私たちは今でも誰も病むことなく元気でいられるのは裏山の恵みのおかげだと感謝しています。
小学校には4Kmを歩いて通いましたが、妹たちの子守りのため、学校を休むことが多くありました。勉強をして行くと先生に褒められるので学校は大好きでした。
その頃の唱歌です。
♪そろった でそろった 早苗がそろった
植えよ 植えましょ 御国のために
米は宝だ 宝の草を 植えりゃ黄金の花が咲く
今年ゃ豊年 穂に穂が咲いて
道の小草も米がなる
田植え時期には1週間の農繁休業があり、学校は休みで、子どもたちもみんなで田植えの手伝いをしました。土地のない人は、沢山の土地がある裕福な家に、1日米1升で働きに行ったそうです。すべて仕事でしたが、田んぼの手入れが行き届いていて、山奥まで見事な田園風景でした。今、目をつむれば、お腹を空かしていたことより、あのキラキラ光るほどに手入れされた田園風景がまぶたにはっきりと映って見えるのです。
私が都路村に嫁いで10年が過ぎた頃、私は3人の母になっていました。夫は郵便局へ配達員として勤めるようになりましたが、はじめは1か月働いても米1俵やっとの給料でした。東京電力の原子力発電所で働く人が多くなり、村の生活も一気に裕福になって行きました。次第に田畑の手入れはおろそかになっていき、ただ高い収入を求める様になりました。田舎の人間関係もすっかり変わってしまい、安い給料で働く夫は笑いものになっていました。このころから次第に学校では子どものいじめが問題になり、幼児虐待まで起こるようになりました。
貧しい農村で食べ物のない時代に、しかし汚れない美しい自然の中で育った阿武隈高地の子どもは、中学を出ると進学せずに、東京や関東の会社から金の卵と求められ集団就職して行きました。そして戦争で荒廃した都会の復興に多大な貢献をしたのです。そんなに悩まず金をかけず、戦後の食料難の時代に、皆で助け合う精神を親が手本として生きる事で、子らはすくすく育ったのです。
あの手入れされた田園は、あの事故で汚され、除染の名目で長年かけて作った肥沃な土を剥ぎ取り、大きな袋に入れられて運ばれてしまい、またやせた土地となってしまいました。
変わり果てた環境で、廃棄物を減らすためと作られた県内何か所もの焼却場から毎日出る煙にさらされて、人の心身はどれほど健全を保てるのでしょう。
金と権力で日本全土に作られた原発は、その地域の汚染だけでなく、真実が歪められることで、なお一層人の心を乱しているとは考えないのでしょうか。特に若者や素直に生きようとする人まで心をゆがめられてしまうと私は思います。
私は今、権力のある人たちに真実を明らかにする勇気をお与え下さいと祈るばかりです。
告訴団の活動をここまで続けて下さった皆様に敬意と感謝を申し上げます。
双葉病院からの避難:大河陽子
大河 陽子(福島原発告訴団弁護団・被害者参加代理人)
刑事事件の公判廷で明らかになった、双葉病院からの過酷な避難の状況について、お知らせします。
双葉病院の患者さんたちは、高齢の方々が多く、寝たきりの方も多かったですが、原発事故前は、穏やかに過ごしており、亡くなるような健康状態ではありませんでした。
平成23年3月11日午後2時46分に、東北地方太平洋沖地震が発生しました。11日午後3時27分頃、津波の第1波が福島第一原発へ襲来し、その約10分後には、津波の第2波が同原発へ襲来し、原子炉建屋などに大量の水が浸入しました。
政府は、12日午前5時44分に、原発から10km圏内に避難指示を出しました。福島第一原発から約4.5kmしか離れていない双葉病院は、この避難指示の対象でした。
12日午後2時頃に、双葉病院と隣接するドーヴィル双葉では、第1陣避難がなされました。取り残された患者や入所者は、双葉病院では129名、ドーヴィル双葉では98名でした。
第1陣避難と時をほぼ同じくして、12日昼過ぎ頃、陸上自衛隊では双葉病院の患者らの救助命令が出され、自衛隊は、原発から約60km離れたところに位置する郡山駐屯地を出発しました。しかし、救出へ向けての移動中に、1号機が水素爆発してしまい、放射線防護の装備を備えていなかったので、やむなく郡山駐屯地に引き返すことになりました。
12日午後6時25分に、1号機の水素爆発を受け、政府は、本件原発から半径20km圏内の避難指示を出しました。
郡山駐屯地に引き返した自衛隊は、放射線防護の装備を整え、当初の予定から丸一日以上遅れた14日午前0時頃、双葉病院へと再出発しました。
双葉病院などのスタッフは、院長を含め6名のみでした。スタッフらは、ほとんど食事を摂っておらず、備蓄してあった水やジュースなどを飲んでいるだけで、必死に多数の患者さんたちを看護している状況でした。
バスでの搬送に際して、点滴をしている重症の患者であっても相双保健所までの短時間の搬送であれば大丈夫ということを院長に確認して、点滴を外して搬送することになりました。点滴を外されたことで、この時点で、患者さんは、水分、栄養分を摂取できなくなりました。寝たきりの患者さんについては、寝かせた状態で搬送する必要がありました。
14日午前10時30分頃に、第2陣避難のバスが、双葉病院から相双保健所に向けて出発しました。出発したものの、第2陣避難の受け入れ先病院は決まっていませんでした。官邸からは、避難を早くさせるようにと切羽詰まった連絡が何度もありました。福島県の災害対策本部の職員らは、患者らを搬送する病院を確保するために、片っ端から電話をかけて探していました。しかし、どの病院からも、医師が足りていない、双葉病院の患者を受け入れる余裕がないと受け入れを断られていたのです。これは、先に避難した方を受け入れたり、地震津波による被害者を受け入れたりしたためだと考えられます。
患者さんを乗せた車両に、病院スタッフは付き添えませんでした。数少ない病院スタッフは、病院に取り残された患者さんをケアするために、自らの危険を顧みず、原発が何度も爆発する中で病院に残ったのです。また、避難開始時には、とにかく患者を相双保健所に搬送することが第一で、近くにある相双保健所にたどり着けば、そこに医療スタッフがいるものと考えられていました。
しかし、結局は、これから述べるとおり、第2陣避難のバスによる避難は、原発事故による大混乱のため、約10時間以上もの長時間にわたってしまいました。
第2陣避難の最中の14日午前11時01分に、3号機が水素爆発を起こしました。「ドンというような、突き上げるような爆発音」が聞こえてきて白煙が上がっていました。
第2陣避難のバスは、その日の正午頃に、スクリーニング場所である南相馬市の相双保健所に到着しました。双葉病院から相双保健所までは、海岸沿いの道路を使えば30分くらいで着くのですが、原発周辺を避けてう回路を通らざるを得えなかったので、通常の3倍の1時間30分ほどの時間を要しました。
相双保健所に到着した患者らは、バスの中でスクリーニングを受けた後、バスに乗ったまま待機し続けました。
この間も福島県の災害対策本部の職員らは、受け入れ先病院確保のため、中通りの施設に片っ端から電話をかけましたが、どこもいっぱいでした。
病院が軒並み受け入れられないということで、福島県の職員らは、いわき光洋高校へ患者の受け入れを依頼しました。
いわき光洋高校は、当然、医療器具もなく、暖房器具もなく、十分な寝具もない状況でした。しかし、いわき光洋高校の校長は、職員らが受け入れ先確保に相当苦労していた様子だったため、一時的受け入れを承諾しました。
14日午後3時頃、患者らの乗ったバスは、いわき光洋高校の体育館へ向けて出発しました。原発から20km圏内を迂回しなければなりませんでした。
14日の夜8時頃に、患者らの乗ったバスは、いわき光洋高校体育館に到着しました。出発から約10時間も経過していました。水分も栄養分も摂取できず、医療ケアも排せつケアも受けられない10時間でした。
双葉病院の看護副部長の証言によると、「バスの車内は、排せつ物による異臭が漂い、バスの座席にきちんと座っている患者はほとんどおらず、防護服を着せられた患者は手足のきかない状態、悪く言ったら蓑虫が包まれているような手足がきかない状態でそこに座らされている状態で、また、シートの足下で亡くなっている患者もいる」など壮絶な状況だったことが明らかになりました。
第2陣避難を見届けた後、病院スタッフは、双葉病院の患者さんたちに付き添っていました。
ところが、14日の深夜には自衛隊が撤退してしまいました。その場にいた警察は、自衛隊の撤退を見て、ただならぬ状態であると判断し、当該病院スタッフを警察の車両で強制避難させ、割山峠付近まで退避させました。それ以降は、双葉病院には医療スタッフはいない状態となってしまったのです。
3月15日の午前1時半ころに自衛隊が双葉病院に向かい、午前9時頃には避難作業を開始しました。第3陣避難です。
この避難活動にあたった自衛官の供述調書によると、救助作業中に「線量計の音が鳴る間隔がどんどん短くなり、放射線の塊が近づいてくるような感覚だった。医師免許を持った自衛官が『もう限界だ』と叫び、すぐに病院を出発するように指示をした」という状況でした。
線量があまりに高くなったため、救助作業が途中で打ち切られ、42名の患者が取り残されたことが明らかになりました。
第4陣避難は、15日の11時半に7名を救出しました。作業に当たった自衛官の調書によれば、部下に指示して病院内を確認したところ、ほかに患者がいないとの報告だったので、7名の救助で終わりました。
しかし、その後別棟に35人の患者が残されているのを知って再び病院に戻り、15日の深夜までかかって残りの35名の救助を行った(第5陣避難)と供述しています。
以上のとおり、病院のスタッフや自衛隊等の必死な救出活動にもかかわらず、原発事故による放射性物質のため、患者さんたちは、過酷な避難を強いられ、44名もの方々が命を奪われてしまいました。原発事故さえなければ、患者さんたちは、このような過酷で壮絶な避難をすることはありませんでした。
弁護人らの最終弁論共通主張に対する反論:海渡雄一
海渡 雄一(福島原発告訴団弁護団・被害者参加代理人)
分裂した弁護側の方針
3月12日の弁護人らの最終弁論は、まず被告人3名に共通する主張をし、それから各被告人に関する弁論をそれぞれ行うという順序で進みました。
共通主張では、まずはじめに、被告人らに結果回避義務が生じるには、原子炉建屋のある10m盤を大きく超える津波が、敷地正面全体から襲来することの予見可能性が必要だったが、それが生じていなかったとし、たとえ結果回避措置を講じていても事故は防げなかったということを長々と述べ、次に政府の地震調査研究推進本部(推本)の長期評価には信頼性と成熟性がないという主張をし、最後にわずか数ページほど、山下和彦・中越沖地震対策センター所長の検察庁での供述調書は信用性が無いという主張を述べました。
共通主張を述べた武藤被告人の弁護人は、時間の半分を使って、櫛の歯防潮堤の話をしました。私は、弁論がこの点から始まったことが驚きでした。当然、推本の長期評価の信頼性とか成熟性の話から始まり、2008年に会社の方針としては決まっていなかったという話をすると思っていました。おそらく武藤被告人の弁護人は、予見可能性に関する論点では勝ち目が無いと思ったのでしょう。一方で武黒被告人の弁護人は、山下調書を真正面に据えて、弁論の大半をその批判に費やしました。この食い違いは、どうすれば無罪判決がとれるかを被告人の弁護人同士が議論をした結果、意見が分裂し、統一方針がまとまらなかったのだと思われます。
東電内で推本津波の対策が正式了承されたことは無い?
2002年7月の長期評価の発表を受けて、保安院は翌8月に、津波地震が福島沖で発生したらどうなるか計算をするように東電に要請したのですが、東電の高尾氏は40分抵抗してその場を逃れます。その後5年間、東電は津波対応を引き延ばしてきました。しかし2004年のスマトラ島沖津波によるマドラス原発の被災や、2006年に耐震安全審査指針が改訂されたことなどから津波対応が避けられなくなり、東電土木グループは2007年11月ごろから検討に取り掛かります。2008年1月に東電設計に津波評価業務を委託しますが、これは試算などではなく、政府に提出するバックチェック基準津波の計算を依頼したものであることが発注仕様書に明記されています。
2008年2月ごろの酒井・土木グループマネージャー(GM)のメールには、「津波がNGとなると、プラントを停止させないロジックが必要」「地域に説明しなければ津波工事はできない」「地元から停止を求められることもあり得る」などと書かれていて、大きな対策をするとなると原発が停止に追い込まれることを危惧していたことがわかります。
山下センター長の検察官調書は決定的な調書です。山下センター長は、2008年2月16日の「御前会議(*)」で、長期評価を取り入れて津波対策を取る方針を説明し、被告人らを含む誰からも異論は出ず了承されたと述べています。その時の資料には、津波の高さが「7.7m以上」「詳細評価によってはさらに大きくなる可能性」と書かれています。
被告人たちは、このような説明は一切なかった、山下調書は信用できない、と主張しています。しかし、山下調書は、たくさんの客観証拠によって裏付けられます。
機器耐震グループGMの2008年3月6日のメールには、「先回の社長会議(御前会議)でも津波の対応について報告しています」と、3月7日の津波対策の打ち合わせの議事録には、「社長会議でも説明済み」「想定津波高さが10数mとなる可能性があることについて上層部へ周知することとした」などの記述があります。そして、津波高さが10メートル以下であれば、津波対策は2009年6月までに完了していたはずであるとまとめています。3月31日には、福島県に対しバックチェック中間報告の説明をしますが、そのために作られた想定問答集の中には、推本の最新の知見を踏まえた対応をします、という回答が作られています。副社長が地元説明をし、記者会見もした時の想定問答集ですから、会社の方針そのものです。
その後、4月に入って社内に津波高が15.7mとなることが報告されます。4月23日のグループ横断的な検討会合の議事録で、「鉛直壁19mは対外的に大きなインパクトがある」「常務会にも上げて上層部の意見を聞く必要がある」と書かれています。6月10日に武藤被告人への説明をして宿題を出されたあとの7月23日ですが、四社情報連絡会という、原発を持つ他社との会合の場で、土木グループの高尾課長が「防潮壁などの対策工の検討を10月までには終えたい」と言っていて、高尾課長は東電としてこの方針で行くんだと認識していることが分かります。
津波対策をちゃぶ台返し
そして7月31日、武藤被告人が津波対策をちゃぶ台返しにしてしまいました。高尾課長や金戸主任はこれが予想外だったという証言をしています。しかし私は、この会議の筋書きは、あらかじめ経営陣で判断されていたのではないかと考えています。それは、この会議の終了40分後に酒井GMが、東北電力や日本原電に津波対策をやめることにした報告をメールし、部下に対しては追加の計算委託を指示していて、非常に手回しが良すぎるのです。直前の7月21日に御前会議が開かれていますが、「厳秘」「会議後に回収」とされたその資料には、耐震工事の金額の後に「津波対策を除く」と書いてありました。政府事故調の吉田調書で吉田昌郎所長は、津波対策が別途計上と書かれてあれば経営者は必ず聞いてくるので説明した記憶がある、筋書きはもうみんな共有していた、と語っています。おそらく酒井GM以上で方針が決まっていたのではないでしょうか。
津波対策を先送りにした理由については、東電から日本原電に出向していた安保GMの調書にも書かれています。7月31日の会議の後の8月ごろ、安保GMが酒井GMになぜ津波対策をやめたのか尋ねると、酒井GMは「柏崎も止まっているのに、これで福島も止まったら経営的にどうなのかって話でね」と答えたといいます。津波対策に費用が掛かると言うより、大掛かりな津波対策を始めたら危険だということが地域住民や福島県にも分かり、対策完成まで原子炉を止めなくてはならなくなるだろうということで、山下調書とピタリ符合します。
対策が必要なことは認識されていた
しかし津波対策が必要だという認識は、実は変わっていません。2008年9月10日の福島第一での社内説明会は、「機微情報のため資料は回収、議事メモには記載しない」とされた会議ですが、その資料には「現状より大きな津波高を評価せざるを得ないと想定され、津波対策は不可避」と書かれています。
この打ち合せのメモでは、吉田所長の「14m程度の津波がくる可能性があるという人も」という発言や、武黒被告人の「女川や東海はどうなっているのか」という質問と回答が残っています。しかし勝俣被告人はこのようなやりとりを聞いても疑問も持たず、現場に任せていたと言いました。
そうして対策は進まないまま、2011年2月の御前会議では津波対策を含むバックチェック最終提出を2016年まで遅らせることにされ、3.11を迎えることになったのでした。
被告人らの空虚な言い逃れ
3人の被告人は、法廷で、「申し訳なかった」とは言って、裁判官に向かって頭は下げました。しかし自分たちに権限がなかった、御前会議は会社の方針を決める場所ではない、高い津波が来る可能性を聞いても何の疑問も持たなかったと言って、自分たちには責任は無かったんだと主張しました。
彼らの弁護人の弁論を聞いて、裁判官も、「この程度の弁論しかできないのか」とあらためて思ったことでしょう。この弁護人弁論は、裁判官に対して全く説得力を持たなかったのではないかと思います。
東電内で、現場責任者が直接社長や会長に報告する打合せのことで、勝俣被告人を天皇に見立てて呼ばれていた。「中越沖地震対応打合せ」ともいう
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判決直前! 全国集会
2019年9月8日(日曜日)午後 会場未定(東京都)
判決を前に、東京都内にて集会を開催します。会場や時間など、詳細は後日お知らせします。
判決言渡しは9月19日 東京地裁104号法廷 13:15開廷
*傍聴の抽選時刻は裁判所HPで数日前に公表されます。
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ニュースの名前「青空」は、強制起訴が決まった2015年7月31日の東京地裁の前で見た「どこまでも晴れわたった青空」から命名しました。表題は佐藤和良団長の書によります。
2019年6月11日発行
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