第13.14回公判報告:海渡雄一

第13.14回公判報告

歴史地震と津波の専門家である都司嘉宣証人は、推本の長期評価が当時の様々な専門分野の専門家による議論の積み重ねによってコンセンサスとしてまとめられたことを証言された。

海渡雄一 (刑事訴訟支援団・被害者参加代理人)

目次

はじめに

都司嘉宣証人は歴史地震と津波の専門家である。三陸沖から房総沖までの日本海溝よりのどこでもM8クラスの津波地震が起きるという推本の長期評価がまとめられたときの、海溝型分科会の委員をしていた。
当時の様々な専門分野の専門家による議論の積み重ねによってコンセンサスとしてまとめられたこと、その際に残されている古文書の内容にさかのぼって、1611年の慶長三陸沖、1677年の延宝房総沖の二つの地震が、大きな津波被害をもたらしたにもかかわらず、地震被害の報告がないことを、分科会で報告し、様々な分野の専門家の意見が次第に一致し、長期評価がまとめられていく過程をビビッドに証言された。

冒頭手続き

第13回公判は2018年5月30日都司嘉宣証人の主尋問.第14回公判は2018年6月2日都司嘉宣証人の反対尋問と再主尋問であった。
 最初に、追加の書証の取り調べがなされた。指定弁護士から、甲A246~248が申請され、弁護側はいずれも同意した。
 
甲A246
大竹政和教授略歴について、H15.3まで東北大
日本地震学会就任
原子力安全委員会,原子力安全審査会委員
日本電気協会原子力発電耐震委員
東電HPによると、柏崎刈羽原発の地震への対応について、長岡平野地震探査調査委員会顧問に就任していた。

甲A247
都司氏の論文複数。

甲A248
都司氏の著作 「知って備えよう 地震と津波のメカニズム」

都司嘉宣証人尋問(主尋問)

久保内指定弁護士が尋問担当

Q これまでの経歴を説明して下さい

6年前に東大の地震研究所(27年間)を退官し、その後も研究を続きている。専門は、歴史地震の調査研究である。東大の地震研究所での研究は、明治20年より古い時代の地震・津波の純理学的研究を行ってきた。現在,深田地質研究所以外では、建築研究所で月に1回、年に8回発展途上国相手に津波の流体力学に関する講義をしている。高知県四万十市の津波アドバイザーをしている。四万十市にどのくらいの津波が来るか,地震の揺れから何分後に津波が来るか。事業所や住民の命を守るためにどのようにすべきかを考えている。

Q 歴史地震とは?

明治20年より古い時代は,機械による計測がなかった時代である。この時代に発生した地震を歴史地震という。文字が生まれる前の地震などは、液状化の痕跡,津波による堆積物などで研究する。私の狭い意味の専門は文字で伝えられている歴史地震の研究である。日本では、5世紀以降に文字の記録が残されている。文字のない時代の地震は先史地震と呼ばれ、歴史地震と先史地震を合わせて、古地震とよぶことがある。

Q 歴史地震についての具体的な研究はどのようにして行うのか?

文字を解読してどう解釈するかを考える。私は、日本史の専門家の方と一緒に作業することが多い。古文書から地震や津波に関する記述を読み取り,現代的な意味での地震学・津波学に照らしてどう解釈できるかを考える学問である。

Q 証人の専門的知識の特徴はどのようなところにあるか?

日本史の専門家の方と一番緊密に連携をとっていることが特徴だと思う。死んだ人のリスト,伊勢神宮のリストなどを端から調べる。ここまでさかのぼって研究している人はそれほど多くない。私は古文書の98%くらい判読することができる。

Q 近代的な観測に基づく津波・地震の研究はされているのか?

津波に関しては最新のコンピューターに基づく研究もしている。地震・津波の現地調査にいく。3.11後3カ月の間6~7回現地調査を行った。2004年末のスマトラ地震のときには綱見て瀬26万人が亡くなったが、20人くらいの各国の人を束ねて国際調査団を作り、海外調査をした。

Q 歴史地震の研究内容は?

古文書の解読がメインの研究である。古文書の量・質は時代と地域によって異なる。関東地域は1182年の鎌倉時代以降となる。京都・奈良はもっと古くから、1200年分ほど、資料が残っている。東北は1602年以降にしか、ほとんど資料がない。全国くまなく資料があるのは1600年ころから後のことである。江戸幕府以降は資料が失われていない。江戸時代の元禄時代以降一般庶民が広く文字を読み書きできるようになった。庶民が字を書いている1700年以降は、資料が増える。たとえば、平塚市の場合、江戸時代には、当時の人口の2倍から3倍くらいの数の古文書が残っている。それより前は2つほどしかない。
標準的古文書は、藩,庄屋にあるものである。有力商人,寺のお坊さん,神社の神主さん,  江戸時代の新聞(瓦版)などの資料も参考になる。これら全体を見渡していくのが、歴史地震学という学問である。

Q 歴史地震の研究から分かったものを何に生かすのか?

毎年9月の第2週に歴史地震研究会を開催している。論文集をまとめている。地震学会の地震という論文集にも研究成果を発表している。「Japan Geographic Research」に英文の論文を投稿する。ただ歴史地震の点で英語論文を書くことはそんなにない。

Q 地震学の中で歴史地震はどう位置づけられる?

 東海南海地震・三陸地震について,明治20年代以降の機械計測のみでは1例しか知らないことになる。これに対して、例えば宝永,安政東海地震を入れると3つに増える。共通の地震の性質を持つ、東海・南海地震を数えると、全部で9回の東南海地震になる。共通の性質を知ることができ,南海地震の特徴・全体像が分かる。
 他の分野の地震学の知見と合わせて地震学全体に貢献できる。常に注目されて地震学会でしょっちゅう質問され、意見交換をしている。

Q 歴史地震を活用するにあたって留意する点は?

 年季がいるというか,どの立場の人からみても正当であることに留意して調査を進めなければならない。江戸時代では情報にゆがみがある。江戸時代の組織がベースにあって古文書が生まれたという背景を知らなければならない。他の分野より年季やいるというか,5年とか10年の経験を経ないとちゃんとした論文が書けない。
 私が論文を書くとき,完成した論文を必ず日本史の専門家に見てもらうようにしている。  A4で50枚くらいの論文で5点から10点の注意を受ける。いまでもそういうことがある。

Q 津波の痕跡高・浸水高と歴史地震の研究にはどういう関係があるのか?

 東海地震系列の地震は大きな津波を伴うことがわかっている。南海地震もそうである。寺の石段の3段目まで津波が来たと古文書にあると、測量機械を持って行って高さを測る。
 コンピューター計算に強い人にデータを渡し,当時どれくらいの高さであったかということを計算する。
近代的な観測が始まったのは明治20年で.まだ130年ほどしか経過していない。
 歴史地震の調査は重要である。日本では、1200年分くらいの資料がある。アメリカは200年くらいしかない。世界の中で、これだけ長期にわたる歴史資料が残っているのは、中国と日本だけであり、世界に誇ることができると考えている。

Q 歴史地震の調査は具体的に防災に生かすことができるか?

 そこに住んでいる方が何パーセント亡くなるかという統計を出すことができる。古文書からどのような被害が出るとどれくらいの人が死ぬなどの法則性が浮かび上がってくる。

Q 具体的にどう生かそうと思っているか?

 東海地震の際、静岡県焼津市では、津波は5分でくる。津波がくるまでの時間が5分しかないとすると、全員が避難するには何メートルの間隔で津波タワーがないといけないかを計算する。津波の高さは1000年に1回は命だけを守る。100年に1回の津波は防波堤の高さ(5~6メートル)で守れる。

Q 地震本部の目標・役割は?

 私は、地震本部の長期評価部会の委員を務めている。国全体としてどういう地震がきてどういうところが危ないか,内陸活断層が何年に何回くらい地震がくるか,繰り返し間隔など,国全体として文科省の中で月1回午後1時30分~午後5時まで会議する。
こういう地震が危ない,これから30年20%など地震学者全体の総意としての見解を作っていく。地方の行政の担当者がうちではどういう防波堤を作るという行政の判断にしてもらう。幼稚園や老人ホームなどで見直してもらう。それらの一番元になるテキストを作る。これが推本の役目である。

 P資料1 地震本部のHP 基本的な目標と役割
   地震防災対策の強化,被害の軽減
 地震本部にはいくつかの分科会が設置されている。こども分科会とも呼ばれる。
  内陸活断層分科会
  強震動分科会(揺れ,ビルの倒壊,液状化)
  海溝分科会(プレート境界型)(かつて所属していた。)
   それぞれの方面の専門家が集って,全体会議に報告してまとめていく。
 親会議(私はここに所属している)
  長期評価部会

  P資料2 地震本部のHP
   長期評価部会 発生位置,発生間隔

Q 地震の短期評価はあるのか?

 あるとしたら,地震の予知になる。東海地震が起きるのではというときに傾斜や地下水などを調べたりもする。気象庁が一括してやっている直前情報になる。地震本部では長期に見ていて、短期的な予知はしていない。

Q 長期評価部会の委員は?

 部会長は佐竹健治先生である。佐竹先生は、東北,北海道にも、広島など西日本にも強い人である。また、防災研究所,気象研究所などからも委員が選ばれている。
 
 P資料13 H14年 当時 長期評価部会 出席者
  議長 島崎先生と松田時彦先生の二人が内陸活断層の専門家である。平澤先生は東北大学の観測の専門家である。杉山雄一先生はつくばにある産業技術総合研究所で内陸活断層の研究をされていて、実際に掘ってみるようなことをされている。加藤てるゆき先生は私の同僚で、地盤変動で室戸岬が上昇し地震でどんと下がるというような研究をされている。
皆さんが、評価をするのに一番有効なデータを出しておられる。これだけの人が集まってというのはこの機関だけである。国の機関の中で、一番有力なものである。地震学、地震工学などを総合して、全体を網羅して議論しているのはこのグループだけである。
 現在は私は、長期評価部会に所属している。過去には海溝型分科会にも所属していた。

Q 海溝型分科会とは?

 プレートの動きを見る分科会である。プレートの動きは内陸活断層とは物理的な性質が違う。沈むこむプレートと乗っかったプレートの境界のすべりで地震が起きる。
 一方活断層は130箇所くらいの主な活断層が日本全体であるとされる。そのどれかで地震が起きる。1つの断層は1000年、3000年から1万年に1回くらいしか起きないが,全体として活断層の数が多数あるので,人生の間に2~3回は大地震を経験する。

Q 海溝型分科会の委員は?

 東北大学の先生が伝統的に入っている。内陸に運ばれた砂を地質学的に研究している先生もいる。
P資料11 1枚目 H13.12.7 第8回海溝型分科会の議事録 出席者
    阿部勝征 地震学者 津波学者
    海野先生 東北大学 長い間観測
    佐竹先生  天才だ。英文論文も山のように書いている。私よりも15歳くらい若い方。
    濱田先生 気象庁の地震火山予知連絡会の会長、津波警報の責任者である。
これだけの専門家が集まって海溝型の長期評価をする。国として、統一的見解をまとめる機関は,これだけで、国の機関としては最も主要な機関である。

Q 長期評価(三陸沖~房総沖)にはどのように関わったのか?

 私は、三陸沖から房総沖に至る領域の長期評価の作成に関わった。かなり発言をしましたし,私の提案も採用された。おみこしをかついだと自負している。私は、海溝型分科会の委員としてかかわった。この中で、歴史地震に強い人は私一人だけであった。審議の過程で、必ず歴史地震の面からはアドバイスをしていた。

Q 津波地震についてどのように議論したか?

 「歴史の上では同じようなものがありますか?」という問いに対して、私は一番適切に答えることができる立場にあった。私の説明に対して、みなさんが納得できましたという場面がしばしばあった。

Q 三陸沖~房総沖の長期評価前の長期評価について

宮城県沖は古い記録を見ると40年に1回という頻繁に地震が起きている。しかし、この領域では大きな津波は起きていない。委員会の審議は,平成14年に宮城沖で地震が起きた直後であった。南海トラフでも70年くらい前に大きな地震が起きていた。そろそろ次の準備が必要といわれていた。

Q 三陸沖~房総沖の長期評価の概要は?

 典型的な地震が繰り返して起きる領域に区分けした。過去の地震だけでなく,海底の特徴や微小地震の起き方などから領域分けした。起きた地震の特徴から将来の地震を予測した。

  P資料5 2枚目 長期評価 対象領域
  P資料6 長期評価 地図
このように領域を分けて議論を進めていった。

Q 三陸沖~房総沖の津波地震の定義は?

 地震の揺れが小さいわりには非常に大きな津波がくると定義。
  M29(1896.6.15 明治三陸)が典型的な津波地震の例である。

 P資料5 2頁 長期評価本文 津波地震の定義
歴史地震ではM、Mtが確定しにくいので,歴史記録の中で、地震被害の記録がないのに津波の被害が記録されているものも津波地震に含めることにした。

Q 津波地震の発生領域、規模,確率をどのように評価した?

発生領域としては、東日本の海溝軸から50~70kmの範囲で起きる地震が津波地震であることが多い。その場所に震源域がかかる地震が津波地震になりやすいと指摘されている。
発生規模 Mt8以上 M7.5を超えると大地震だが、津波からみてM7.5から8が 人間生活に影響を及ぼすものとして問題とすべきであると考えた。 
  P資料 表4の2 津波M 8.2前後
           30年以内に20%程度
   「備考」 400年で3回発生

Q 3回の地震とは?

 江戸時代の初めから記録が完全にそろってくるが、その中で、明治29(1896)に起きた明治三陸沖地震は、大きな津波がありながら、地震被害がほとんどない。典型的な津波地震であり、誰も疑う余地のない津波地震である。
 江戸時代初めころの慶長16年(1611)に三陸沖で大きな津波が観測された。これも津波地震といわれる。揺れは東北各地で記録されているが、地震の被害が書かれていない。
津波は仙台の伊達藩の記録,盛岡の南部藩の記録に2000~3000人くらいの死者を記録されている。
 延宝5年(1677)の延宝房総沖地震でも大きな津波被害が出ている。この地震も、     揺れの被害の記録はない。九十九里の庄屋さんの記録に小さな揺れありと記載があり、これも津波地震である。
 このように、だいたい400年間に3回の津波地震があったことになる。

Q この3つの地震についてそれぞれ聞いていく。まず、1896年地震津波について

 この地震は夕方に起きた地震であった。海岸では揺れとしては1年に5~6回くらいの普通の揺れであった。ところが津波が平均して20(最高38)m。2万1000人が亡くなる大災害になった。
 一方で、地震の被害は0であった。
  P資料7 長期評価 20頁
    1896年6月15日の地震
    「引用文献 うさみ 渡邊」
  Q 宇佐美先生とは?
  A 私が、直接指導いただいた先生である。膨大な歴史記録を活字にして資料集を作り上げた方である。その成果として、『日本被害地震総覧』が出版されている。一冊に古文書の内容が網羅的にまとめられた便利なカタログ集である。宇佐見龍夫先生は現在92歳で、ご存命である。
  Q 渡邊偉夫(ひでお)先生は?
  A 気象庁の津波警報の責任者である。
    渡邊先生が作成された津波カタログも便利のいいカタログである。渡邊先生は    3年ほど前に亡くなられた。

  P資料8 長期評価 図13
   震度2 
震度4 自転車がせいぜい倒れるくらい 建物被害なし
   三陸 縦長の丸 一番東が日本海溝にあたる。
   
  1896年地震は,近代観測が始まって以降の地震
    海面の観測がはじまった以降初めての津波でもあった。
    地震計による観測としては、1890年の濃尾地震につづいて観測された例である。

  P資料8 長期評価 図15
   「三陸町綾里 38.2m」 東北地方太平洋沖地震津波に匹敵する津波であった。この津波被害を彷彿させる規模で、死者は2万1000人に及んだ。

Q 1677年延宝房総沖地震について

 地震の揺れが非常に小さかった。日本各地で津波被害の記録が残っている。銚子,一宮,江戸で揺れたという記録はあるが地震による被害の記録はない。津波は,房総半島御宿周辺、銚子付近,いわき市,仙台の岩沼(海岸線から3~4キロ内陸で5~8mの津波が観測されている),名古屋にも津波が来た記録が残されている。
 
  P資料7 長期評価 八丈島も襲われたとの記載がある。
   「羽鳥 1975」
   Q 羽鳥徳太郎先生はどのような方か?
   A 私の兄貴分といいますか先生に当たる方である。歴史上の津波に関して,津波の高さの推定値を決めた方である。
 
  P資料8 51頁 図22 津波の高さ
   岩沼~八丈島まで津波が来ている。斜線の楕円形は波源域だろうとして引いた領域である。楕円の短い方の直径の延長上で津波が高くなるという法則がある。日本海溝とこの楕円の領域の東側が接している。長年津波をやってきた先生のおよそのご判断として尊重すべき研究成果である。
   
私自身、この地震と津波に関して3つほど論文を書いた。また、近代的観測器具を持ち出して正確な津波高さを測定し直した。そのような研究成果を紹介する。

Q 「月刊地球 歴史上に発生した津波地震」では、どのように説明しているか

     P資料32 
羽鳥先生の論文では、津波の高さが最高8mとされていた。津波地震という確信をもって書いた。
Q 千葉県一宮の古文書は地元の人(村長さんに相当)が書いたものであるということだが、その文書の信用性は?
    A 揺れが小さかった。その後に大きな津波が来たと書かれている。自分の目で見て感じたものを書いているので極めて信用性が高いと考えた。
    Q 被害の記載は?
    A 「少しの地震これあり」「おびただしい音」「一宮の宿場 52軒の家が全壊」
海岸線から1~2km内陸地域にまで津波被害が及んでいる。大きな津波であったことが分かる。2km内陸で137人の即死者が出ている。津波が大きかったと理解できる。
     
「玄蕃先代集 乾」醤油蔵の代表者の日記である。
     「平藩 万覚書」公的な立場の日記である。
       いわき市の海岸で津波被害が出たと記録されている。
     「水戸紀年」 日記ではなく時が経ってから水戸藩で主にどういう出来事が起きたかを書いてある歴史記録文書である。直接の体験者が書いたものではないが公的な記録なので信頼性がおけると考えられる。
     「妙音寺」というお寺の記録
     「玉露藻」江戸幕府の公的記録 一番標準的な記録

 これら古文書から1677年の地震時の津波によって、かなり内陸部で人が死に,建物が壊れたことがわかる。この論文には引用していないないが,銚子で池(標高13.5m)にまで津波が入ってきたことも記載されている。
 これらの古文書を総合すれば、羽鳥の見積もりより5割増し位で、津波高さ12~13mくらいの津波が襲ったものと考えられる。
 このような推定は、長期評価にも採用された。各委員も問題ないだろうと長期評価本文のテキストが作られたのである。

Q 2007年には長期評価公表後に延宝房総沖について論文を書かれてますね?

  現地測量を行い,津波高さの論文を書いた。2007年論文である。

  P資料33 今村先生,佐竹先生などが共同著者となっている。津波研究を率いている専門家が総がかりで書いた論文である。羽鳥先生の時代より古文書が増え、津波高さを測る機械も増え、流体力学的にもうちょっと議論しようということで論文をまとめた。執筆者らはこの地震が津波地震であるという共通認識をもってこの研究をした。
  「表1 資料文献リスト」 古文書がいろいろ掲げられている。
  Q これらをどう活用した?
  A 活字で読めるようにした。信頼性の高い論文を①~⑧。これに基づいて各地で津波高さを測定し,津波高さを推定した。
    ⑦一宮町史 直接に見ていた人
    ⑧江戸幕府直属のもの 信頼性高い
    それぞれは江戸時代に書かれたものによるので,信頼性はある。
  「表2 浸水高の推定結果」 
 古文書に書かれていたものを書き出した。
 50%以上の家の津波被害が出ているところは浸水高さ地上2メートル以上の津波の場合大破・流失するとされている。浸水高さが地上1メートルなら建物が濡れるだけに終わる。地面の標高に、その地域の建物の被害状況から推定した浸水高さを加えると,浸水高が出てくる。そうすると、だいたい6~7メートルの津波が来ていることがわかった。いわき市も6メートルくらいの津波が来ている。

 これらの被害状況、津波高さを再現できる波源モデルを作成した。波源となった断層がどこにあるときに、古文書にある被害状況を説明できるかが一番興味があった。津波の記録から逆に波源を推定しようとした。

図2 地盤変動量分布
図2 地盤変動量分布

このように、三枚程度の断層があったことがわかる。そして、この断層の海側の部分は、日本海溝に沿っていることがわかる。この領域で津波地震が起きているという長期評価の考え方と符合している。

Q 2012年にも延宝房総沖に関する論文を書かれていますね。

 今村先生も共同執筆している。津波工学研究報告29号の論文がそれである。古文書の分析がより進んだので新たに発掘された文献をもとに、,日本史を専門としている人の助言を受けてより精密に津波高さについて。現地調査に重点を置いて書いた。
実は、岩沼はいわきの間違いではないか人がいた。しかし、それが誤りであることがわかった。その古文書に田村右京大夫という殿様の名前がでてくる。この方は、岩沼を支配した人であると日本史の人からアドバイスをもらった。
 「玉露藻」にある岩沼が、「田村右京太夫の領地」であったことは藩史大辞典に明記されている。したがって、津波が岩沼にまで及んでいたことは間違いないことが裏付けられた。この地震による津波の影響は仙台の近くにまで及んでいたことになる。


(『津波工学研究報告』29号 都司(2012)より引用)

津波の分布図を見ると、銚子で13.7メートル、いわきで9メートル、岩沼で5.9メートルの津波高さとなる。延宝房総沖地震は、津波地震と断定できる。津波の高さがかなり高く、地震の大きさが小さいからである。そして、その震源域は,日本海溝沿いから日本列島へ何十キロほど近い領域と考えられる。震源域は南北に長く、その影響は北は仙台、南は八丈島などに及んだ。2002年の長期評価当時も同じ理解であったが、津波の高さについては、羽鳥の数値が頭にあった。その後の研究によって、この地震が津波地震であったという確信は深まったと思う。

1611年慶長三陸沖地震について、どのような地震・津波か?

  この地震は江戸時代の初めの頃の地震である。仙台藩、釜石市あたり南部藩のあたりにまで被害があり、2000-3000人の津波による死者が記録されている。
 津波高さは高いところで15-20メートルに及び、明治三陸沖にも匹敵する。そして、被害領域が明治三陸沖と比較して南側に張り出しているという特徴がある。

Q 証人は1994年にこの地震について論文を書かれていますね?

 P資料32 22ページ 都司1994年 地球論文
・山科ときおという京都の公家が江戸に滞在していて、地震の揺れを記録しているが、地震による被害が書かれていない。江戸での震度は4程度であろうと考えられる。
・仙台藩の公式記録である「伊達氏治家記録」にも地震による被害は書いていない。地震で強くは揺れたが地震の被害はなかったのだろうと思われる。
・「宮古由来記」 代官が書いたもので史料として信頼できる。朝9時から10時頃地震があり,午後14時頃津波が来たと記録されている。
これらの古文書によると,当日午前8時から10時に大きな地震があり、三陸から江戸でその揺れを感じた。しかし、地震被害はなかった。午後2時頃の余震のあとに大きな津波が襲った。おそらくこの余震が本震と考えられる。2年前の熊本地震も後に起きた余震の方が規模が大きく、こちらが本震と判定された。この場合と同じように考えられる。

Q 「1995年論文」「月刊地球」上田先生との共著論文では地すべり説を主張されていたようですが。

 ここでは、1611年慶長三陸沖地震について津波地震説と海底地滑り説を紹介した。 P資料24
 ここでは、海底地滑り説を採ると書いた。いまとなっては私はこの地震は海底地すべりではないと思っている。もし海底地すべりとすれば被害範囲が非常に狭くなるはずである。ところが慶長津波は宮古から相馬市まで南北に非常に長い海岸線に被害が発生している。だから、海底地滑りではない、津波地震と現在では考えている。

Q 証人は、平成27年に福島地裁で証言されていますね。

 1611年については,津波地震ではなく、正断層型の地震だったのではないかと証言した。この見解の根拠は宮古のお坊さんが大きな音を聞いてから地震が来たという証言に基づくものである。ちょっと正直どっちともいえない気がしている。昭和三陸沖の地震は正断層型であったが、音が聞こえたと報告されている。プレートがポキンと折れたときの音ではないかと言われている。
ただ、もし昭和三陸沖地震のように、ぽきんと折れる正断層型の地震なら揺れによる被害が出るはずである。ところが、よく調べても、この地震についての揺れの被害がない。それがないからやはりプレート境界に起きた津波地震と考えた方がいいのではないかと、いまでは思っている。
 2002年の長期評価では1611年慶長三陸沖地震は津波地震と評価とした。私も含めて他の先生も津波地震とする見解に賛成した。阿部先生が津波の専門家だったけれど津波地震と判断を下された。

  P資料6 長期評価 海溝寄り

Q 3つの地震をみても福島県沖では津波地震が起きていないが。

400年間にたまたま起きた津波地震が福島よりも北と福島よりも南で起きたにすぎない。三陸から房総沖は地質が柔らかい。北から南まで中小規模の地震の揺れの周期の長い同じような地震が起きている。福島県沖で起きていなかったのは偶然だろう。微小地震の起き方と地質に着目してひとくくりの領域にするのが良いと判断した。
(午前中は終わり 11時50分)
(午後再開 13時15分)
久保内Bに尋問続行

深尾神定論文について

 P資料6 海溝寄りの領域分け図
Q 領域分けの根拠となった論文は? 
A 1980年 深尾先生 三陸沖北部から房総沖にかけての低周波の地震波を計測した。ゆっくり揺れて周期が長い地震をプロットした。P波とS波との区別がつきにくい。             こういった際立った特徴がある地震が起きている。
  資料9 深尾良夫・神定健二論文(「日本海溝の内壁直下の低周波地震ゾーン」(*1) 1980年
  資料10 和訳

*1 : 1974(昭和49)年から1977(昭和52)年に発生した611の地震を選定し,波動特性により超高周波,高周波,低周波,超低周波に分類し,日本海溝の軸にほぼ平行な3つのゾーンに分割できること,日本海溝の内壁直下に,低周波および超低周波地震がほぼその領域でしか見られない「低周波地震発生帯」を認めることができることを示した
点線で囲われた領域に超低周波,低周波地震が集中している
点線で囲われた領域に超低周波,低周波地震が集中している

この論文によって、日本海溝の海溝軸付近では低周波地震が発生していることがわかる。その中の特に大きなものが津波地震である。
   P資料9 地図
     Iゾーン 海溝から50~70km ○,◎はこの中に集中している。
       ○は低周波 
       ◎はさらに低周波 ベリーロー
       北から南まで、このような同じ性質の地震が狭い幅の中で起きていることがこの図に示されている。

    Q これと津波地震の関係は?
    A 津波地震は揺れの周期が長いため人体としては強くは感じない。しかし、海底の盛り上がり量は大きい。それが津波となる。
      ○◎のうちマグニチュードの大きくなったものが津波地震であると言っていい。
    Q この論文は長期評価に参考文献としてあがっていないのですが?
    A これを常識の一つとして議論がされていたはず。議論している、みんなの頭の中にあったと思う。

Q 渡邊偉夫津波地震論文とは?

 Q 長期評価公表後に同趣旨の論文はあるか?
 A はい。
2003年に渡邊偉夫先生が書かれた「日本近海における津波地震および逆津波地震の分布(序)」(『歴史地震』2003年19号)がそれである。
海溝から少し陸よりのところに付加体という柔らかいところがあり,それらの近くで低周波の地震がある。
 渡邊偉夫先生 Mt(津波)-M=0.5より大きい地震を津波地震としてプロットした。
 Mの大小にかかわらずにみると日本海溝沿いに一様に分布していることがわかる。
       P資料36 わたなべ論文 2003年~2004年
             「図2」 「●」0.5以上

北海道南方から福島県、茨城県沖合にかけて津波地震、準津波地震があらわれる場所だと分かる。

  Q 若干陸よりにもデータがみられるが、海溝寄りの領域ではないのではないか?
  A 1884年(M25)からのデータを集めた論文である。この時期は、地震計が日本列島に数点しかない時で、位置についての精度が悪い。狭い帯に入っていないようにみえるが,精度の悪い時代のものもプロットしているのでそう見える。本来は50~70kmの範囲に入るようなプロットになると考えられる。

長期評価公表をまとめた際の慶長三陸沖に関する議論状況

Q 1611年を三陸沖の津波地震と判断するに至る議論経過について、海溝型分科会での議論経過について聞く。
A 午後2時ころ津波がきた。この津波を起こした地震はいつ発生したものかが問題である。人によっては朝11時頃の地震が津波の原因とする。そうすると4時間かかって津波が到達したことになる。うんと遠い千島沖で地震が発生したことになる。
しかしこの議論にはいくつか欠点がある。千島から津波が到達するとしても、実質4時間もかからない。津波が集中しているのは三陸沖に限られる。明治三陸と同じ程度の津波高さに及んでいる。また、宮古のお坊さんが歩いて30分のところで大きな音を聞いた。何事かとお寺に帰ったらお寺に津波がきた。30分で津波が来たなら三陸沖での地震と考えられる。

Q 長期評価公表をまとめた際の延宝において海溝で起きた津波地震と判断するに至る議論経過?

A 津波地震であったことは争いがない。規模が小さくて房総沖ではないかという議論があった(石橋説)。しかし、房総半島で小規模の地震が起きたとすれば,仙台の近くの岩沼や八丈島にまで津波が行くわけはない。多くの先生が石橋説を否定されていた。
だが,正確な震源の位置はよく分からない。大勢の人間が総がかりで数値計算をして,日本海溝の外延に沿って内側に沿うような位置に震源があったということで、委員のみなさんの合意に至ったのである。

Q P資料11 第8回海溝型分科会議事要旨

Q 1611についてはどういう議論,認識?
A おのおの自分の考えをフリーに言う。出席していた人が、それぞれの意見をいい、それがこもごも違っていた。歴史地震については、多くの専門家も理科年表や渡邊先生の年表の知識位しかなく,私が歴史地震について丁寧に説明する前は議論が分かれた。

Q 1677延宝房総沖について委員の先生方の認識は?

A 古文書をきちんと読んでいて地震が小さかったと言ったのは私だけであった。少ししか揺れていない,被害記録がない。具体的な古文書をいくつか示して説明した。この説明の後に津波地震だったと次第に議論が収束していった。

P資料12 H14.1.12 第9回海溝型分科会議事要旨

    Q 1611年についてどういう議論があったか?
    A 明治三陸の被害分布とよく似ているということで皆さん理解して議論した。
    Q 1611年の波源域についてどういった考え方があったか?
    A 1611が津波地震だという認識が私くらいか。他の先生はあまり。
      佐竹先生は北海道の堆積物のことが頭にあるから,千島海溝の地震という見解を示された。

    Q 1677の議論は?
    A 石橋さんの説は房総半島の陸地に近いところでローカルに起きた地震ではという考え方であった。しかし、津波が広がっているからローカルではないという方向に収束していった。
       仙台まで津波の被害があるという意見は、私が言った。私一人しかこういったことを把握していない。みなさん,岩沼はいわきではないかと思っていた。

P資料15 H14.2 第10回 海溝型分科会 議事要旨

Q 1677について
私が主として発言した。みなさん賛同してくださった。1677は津波地震ということに議論が収束していった。石橋先生の考え方は間違いだということが共通理解となった。

Q1611について
 北海道の堆積物 釧路湿原での堆積物調査
正断層型 宮古でお坊さんが30分前に音を聞いた。わずかな根拠。
 しかし、正断層型とすれば地震の揺れによる被害があったはずである。プレート間地震で津波地震だったと議論は収束していった。

P資料16 第11回海溝型分科会 議事要旨

    欠席回の資料はメールで事務局からうけとる。

P資料18 H14 第12回海溝型分科会 議事要旨

Q 1611の波源について
千島沖波源だと佐竹委員は主張された。北海道の痕跡から千島沖で発生と主張された。私は少なくとも地震被害がないから正断層ではないと述べた。津波地震の可能性があるどころかかなり断定に近いニュアンスで言った。私は宮古で音が聞こえ,津波が来ているから三陸沖を震源としない訳にはいかない。この時点では私は、津波地震と考えていた。
 H15は海底地すべりという論文を書いたが,やはり無理だと考えていた。
海底地滑りで小さいけれど地震の揺れを感じたというのはあり得ない。地震が起きて地すべりが誘発されたというものだが,論文を書いた直後から無理と思っていた。
この議事に参加している当時は、1611は津波地震という考えだった。そして波源は三陸沖と考えていた。

Q 1677について
委員の方で古文書の元を見て議論に参加している方はほとんどいない。私は古文書の基をみて房総・江戸で被害がないということで皆さんを説得した。最後はその意見に収束して1677は津波地震として考えることになった。

P資料19 第13回海溝型分科会 H14.6.18

1611、1677の議論はない。結論(海溝型の津波地震)が出たから取り上げない。当初はいろんな意見があったが、最終的には結論にみなさん賛成され、承認された。

長期評価公表後に「月刊地球 津波地震特集号」が刊行された。

 松沢内田論文 P資料23 示す
Q この結論(南には未固結堆積物がない)に対してどう考えるか?
A 未固結の堆積物が三陸沖のみに顕著であるという見解はちょっと疑問である。この時の前後の観測事実からすると未固結のものは福島県沖にもある。ただし,三角形の形にはなっていないが。この論文では、他が全くないように読めてしまうが,そうではない。

Q 松沢先生は長期評価の委員ですね?
A はい。しかし、長期評価部会で松沢先生がこの論文に基づく発言をされた記憶はない。長年東北沖の研究を専門にしている方もおられたが,あまり発言された記憶はない。

P資料25 石橋論文

Q 証人はどういうご意見をお持ちか?
A M6程度の小さな地震が起きたというのは違っているのではないか。石橋先生は津波の専門家でない。
Q 1677が海溝寄りという長期評価の信用性を低めるデータといえるか?
A いや。これ自体認める人の数が少ない。結論を揺るがせるには至らない。

土木学会津波評価部会 重みづけアンケート

 H16,H21の2回土木学会津波評価部会 重みづけアンケートがとられているが
 Q 津波学会はどういう団体と認識していたか?
 A 東北大学の今村先生が主催されているのかと思っていた。津波の研究を理学的立場と工学的立場の両方の研究者が合同して最新の結果を発表しあう場ではないか。研究の上の流儀の違いに気づくことはある。
 Q 土木学会津波評価部会は原発の評価をやる団体ですが、ご存知ですか?
 A いや,知らない。
 
  P資料30 アンケート結果示す
  H16実施 「Q1-6-1 海溝寄りの区分け」
     「0.5 0.5 判断が難しい」
 歴史の事例に重きを置くか,理屈に重きを置くかの違いだと思う。
阿部先生・島崎先生は地球物理をよく知っている先生。お二人からすれば今まで起きていない領域でも津波地震が起きるという結論は自然。私のような歴史地震学の立場からはどちらともいえる。
  H21実施 「Q1-6-1」「①②どこでも、北③どこでも」
      「001」③に「1」
太平洋の沈降のスピードである1年間9センチは南北でも変わらない。この運動量としては同じように津波地震が起きる可能性がある。理屈を優先すれば③となる。歴史地震に重点をおくなら違う回答もありうる。「例えば貞観津波がそうであったと考えられる。」貞観津波の堆積物が仙台よりも南の方でも発見された時期ではなかったかなと思う。被害の発生が陸奥の国で発見された。陸奥の国は福島県も含む地域である。

2011.3.11の地震津波について

Q どういう地震・津波だったと考えるか?
A 海溝からかなり陸よりで初めにおきて,海溝に沈み始めるところまでのびていった。付加体(やわらかい)で地殻変動が起きると海底の隆起量が大きくなる。北大の谷岡隆一郎先生論文にそのように書かれている。そういった地震と理解している。
宮城県から青森県まで調査したところ,国土地理院の示した海底の移動量の地図よりも北に津波の高いところが寄っている。海底が隆起するような第2の地震が起きた。この部分は、明治三陸の津波に近い。それによって北の方(宮古の方)でも津波高さが高くなった。
 P資料29 国土地理院 示す
津波地震性を帯びている。津波が非常に大きくなった。ただ、陸に近いところも動いている。その部分に起因する揺れによる被害も大きかった。全体としては津波地震とはいえない。

Q 連動型巨大地震だと考えられますか?
A はい。 

Q 今回の巨大津波を予測することはできた?
A うーん。これは難しい。起きたとしたら起きてもおかしくないとは言っていた。
うーん。これは資料に☆のマーク(やわらかいところから外れている)。この☆の部分で収まっていれば津波が大きくならなかった。そうならなかった。実際には連動型の地震となった。明白に必然性を持ってこのような地震を予測できたかというと自信はない。1000年に1回くらいの割合では、あり得たといえるのではないか。

Q 長期評価は?
A 400年に3回という確率で、この程度なら予測はできる。1611と1677の間はわずか60年、その後は200年あいている。等間隔ではない。交通事故のような感じ。今日、日比谷交差点で事故が起きたら、明日は起きないかと言えば、明日も事故は起きるかもしれない。確率はわかるけど間隔は分からない。このような場合には、統計的にはポワソン分布で計算するよりないタイプの地震である。
Q ポワソンで考える津波地震にはどういう対策が考えられるか?
A 400年に3回だから,三陸海岸に生まれた人が80年生きるとしたら,2人に1人はこのような災害に遭うことになる。
Q 三陸沖のどこでも明治三陸と同程度が起きると?
A はい。
Q 何メートルぐらいの津波を想定すべきだったのでしょうか?
A リアス式海岸がつながっているところではないので津波高さが拡大することはない。だから、12~13,15メートルくらいの津波が来ると思う。明治三陸の津波,延宝の津波の高さを我々は知っていた。延宝では,房総,茨城,福島,6メートル。銚子は13m。直線的海岸の続く地域でも13~15メートルくらいの津波を上限として考えるべきであった。

(14時17分 終わり。)

2018年6月1日(金)午前10時~

第14回公判 都司嘉宣証人反対尋問と再主尋問、裁判官尋問が行われた。

弁155
 同意 要旨の告知
  弁護人作成報告書2013年発行『歴史地震』都司嘉宣講演要旨
   1611三陸沖地震津波の発生メカニズム
   朝 海溝型逆断層
   夜 正断層‥

尋問担当 勝俣代理人 岸弁護士

1611慶長地震の発生メカニズムについて

 証人自身の見解が津波地震,海底地滑り,正断層で揺れ動いている。

 Q 最初は津波地震と考えていた?
 A はい。いまもそうだと思っている。
   
P資料32 歴史上に発生した津波地震
   H5年(1993年)論文
   79頁 「津波地震であった可能性は極めて高い。三陸沖には1611と1896の回,大きな津波地震。」

   H7(1995年)上田かずえ先生との共著
   B105号証
    海底地滑り
   A そのように、ちょっと考えたことがありました。いま私自身はこの見解は否定したいと思います。

 H14(2002年) 長期評価の審理の時
 Q このときは津波地震と考えていた?
 A はい。

 P資料24 H15 月刊地球 都司先生論文
 381頁 右側 「海底地すべり 有力」「海底地すべりの可能性が高い。」
 「地震発生後遅れて発生した海底地滑り」(都司,2001)

Q 「都司,2001」
A この論文を書く前に、パタゴニアで大きな地震があり、現地調査に行った。現地では大きな音がして津波が来たと聞いた。そのことが頭にあり、「津波地震かな」という疑問が湧いた。
Q H13とH15は海底地すべりと考えていたのならH14も海底地滑りと考えていたのでは?
A このころには慶長については海底地すべりを否定的に考えている。
Q H15に書いているのは長期評価と相反するのでは?
A うん。
Q 長期評価の審理のときに海底地すべりと発言していないですか?
A した覚えがあるけど,あんまり覚えていない。当然発言したことはあったはずだが,記録には残っていないかもしれない。
Q 歴史地震の第一人者である証人の意見も尊重されると思うが、海底地滑りも考えられるとの問題提起をしたかどうかはっきり覚えていないですか?
A うーーん。そうですね。あの委員会では両方の考え方があるという言い方をしていたと思うけど。海底地すべりの問題提起もしたと思う。その当時言った地すべりのことについては,ちょっと心もとないところがある。
Q 海溝型分科会の議事録をみても海底地滑りの文言を見たことがない。そういう提案をしていないのでは?
A うーん。そこまで覚えていないな。
Q 海底地滑り案を出すことで委員の方の考え方が変わると思わなかった?
A もちろんあると思いますが,あまり委員の方に採用されなかったのではないかと思います。

Q 正断層という考え方をとられたのはいつごろ?
A 20%くらいの可能性があるなと思っている。
Q B資料1 歴史地震 2013 「慶長16年三陸沖地震津波の発生メカニズムの考察」
  「アウターライズの正断層型と考えられる。」
Q アウターライズ地震とは?
A 太平洋のプレートは1年に9センチ沈み込む。プレートは固体である。ウレタンではない。板チョコがぽきんと割れるように、割れることがある。プレート境界の地震の中には、海溝があって,沈み込むプレートがあって,沈み込むプレートの中でぽきんと折れるような地震が海溝軸の右側で起きることがある。
  アウターライズ地震の場合たいてい正断層である。ただ、正断層の場合に必ずアウターライズとは言えない。

Q 福島地裁で正断層型と証言されていますね。
  H27.3.10付意見書でも、正断層型と言われていますね。 
  尋問はH27.5とH27.7の2回行われたのですね。H25の講演録,H27の尋問時は,正断層型と考えていたのですね?
A そうですね。

Q いまは津波地震と考えているのですか。いつから、そのように考えるようになったのですか?
A うんとね、正直申し上げて,今も2~3割は正断層型の可能性はあると考えています。6~7割は津波地震と考えています。
正断層型の根拠は宮古のお寺のお坊さんが大きな音を聞き、30分で津波が来たと述べていることです。大きな音は昭和8年の地震津波でも起きた現象です。インドネシアでも音が聞こえたという報告がありました。
Q 前回は津波地震と言っていなかった?
A 7割はプレート境界、3割は正断層型と考えていたのは事実です。歴史地震から全てを判断することはできない。このくらいが相当なところだと思います。

Q 平成27年には津波地震と正断層の割合は?
A 正断層のほうが強いと思っていた。

Q 津波地震と考えているのはいつから?
A この論文を書いたあと現在まで、津波地震の可能性の方が高いとかんがえている。

Q 今回の証人尋問までに誰かから連絡があったり示唆があったりはありましたか?
A なかった。あくまで地震の記録から判断した結果である。

Q 福島の裁判所では正断層と考えていた。
  裁判だからかなり確実な根拠を持っていた?
A 科学者がいろんなデータが入ってくるたびに,考えを改めることはある。裁判があるとかないとかは一切関係ない。学問で明らかになったことによってだけ考え方は変化する。また、考え方が変化しなきゃおかしい。

Q 現在起きた地震について、正断層型か逆断層型かは早くにわかるのか?
A それは、極めて速く分かる。
Q 海底地滑りか地震かはわかる?
A 地震記録をみればすぐわかる。海底地すべりだと、P波とS波の区別がない波形になる。

Q 昔の地震のメカニズム,地震動の詳細を把握するのは難しいのか?
A 近代的な機器による計測の記録がない。手掛かりは陸上の揺れ,液状化,音,津波の記録しかない。地震学・津波学のメカニズムが,古文書から知られる事実に一番一致するかで判断するしかない。

海溝型分科会の審理

 P資料15 H14.2.6 第10回海溝型分科会
  3枚目 真ん中少し下
  「間の波源域がわからない。1933とほぼ同様にプレート型。江戸時代だから分からない。」
  2枚目 真ん中下
  「1933正断層 江戸時代 古文書からは正断層か否かは分からない。」との委員の発言がある。

Q 歴史地震から正断層や津波地震を知るのは難しいのでは?

 A 古文書から正断層の判断は難しい。津波地震については古文書からはっきり分かる。
 Q 先生は津波地震か正断層で迷っておられる。
 A あんよう寺のお坊さんが音を聞いている。それが正断層の一つの兆候かなと考えた。
   他方正断層でない根拠もある。

 Q 音。正断層型地震はかなり陸から離れている。海底での音が聞こえるのか?
A 昭和8年の地震(日本海溝)については、正断層型であるが長野県や群馬県でも音が聞こえているという記録がある。

 Q 地震は足元をつたって揺らす。海の方の音なのか,地震波が伝わってきて陸を揺らす音なのか,音の聞こえる位置はどの範囲なのか?
 A 海でも実は音が聞こえている。地震波とはちがう。音波である。1933年の昭和三陸の津波のとき、海の上に船があちこちにいた。水中音波で船の下からショック(下からハンマーで殴られるような衝撃音)を受けたことが観測されている。初めから地震波とは別の音なのである。

1677延宝房総沖地震について

Q 1677延宝房総沖地震は津波地震と考えているのか?
A これは津波地震です。

Q 波源域は特定できたのか?
A 房総半島の御宿,銚子で12~13mの津波を観測している。水戸、いわき,岩沼、八丈島にまで津波が到達している。これから、房総半島の前面の海であり、房総半島沖合の日本海溝沿いのかなり南北に長い区域が波源域と考えられる。

Q 長期評価の結論としては?
A やはり日本海溝沿いに長い津波地震の波源域を書いたところが特徴である。羽鳥徳太郎先生も同じような震源域を書いておられる。

Q P資料8 長期評価の添付図面
  図5 1677 震央 示す
 他の地震は震央からさらに広がって黒い線があるがこれが震源域波源域ということか?
A はい。記録があれば、このように書ける。

Q 1677は、この黒い線がないのはどうしてか?
A 検潮所がなく何分後に銚子に来たのかの記録はない。確実ではないということで書いていないのである。

Q 震央ははっきりしている?
A いやはっきりはしていない。揺れの強さと津波の高さから一応決めている。決して明治以降のきちんとした地震計によるものではない。矛盾がないのがここらであろうとして書いてある。

Q 歴史地震となると波源域,震央は決めにくいのか?
A まあそういうところはある。特に海で起きた地震では津波の高さ(数値計算と比較して一番妥当なところはどこか)ということで決めている。

Q 延宝房総沖 千葉県沿岸で痕跡高調査をした。
  P資料33 2007年論文 都司先生、今村先生、佐竹先生
  痕跡高を調べ上げて、波源を特定した論文であるが、証人は、この論文のどの部分の執筆を担当したのか?
A 痕跡高の調査を担当した。

Q §3については都司先生はタッチしていないのか?
A はい。もっと数値計算に強い先生が担当されている。

Q 痕跡高の調査の手法はどういうものか? 
A 家屋に対する浸水高で計算する。明治時代から近代までの津波被害のデータをたくさんみていると,地上1メートルの津波では、家は浸水にとどまり、倒壊しないことがわかっている。津波高さが地上2メートルを超えると、家が壊れ始める。3mだと流失することが分かっている。古文書に倒壊とあれば2メートル以上などと考えている。

Q 「今村ほか2002」56頁 これは何に依拠しているのか
A 今村ほか 2002 津軽半島周辺での津波被害記録に依拠している。

Q 今村ほかを引用して,被害程度と浸水深の対応を想定されているが、今村ほかは何を根拠としているのか?
A たくさんの津波例をみているので、この非常識ではない。1741大島の噴火津波で、たくさんの集落が浸水した。その時に用いられた手法である。これだけでなく多くの津波研究者は常識的な数値であると考えている。
 私としては、何か代表的な論文を1つあげた。この1つの論文だけでなく,多くの津波研究者がだいたい妥当と考える数値を示すときの根拠としてあげたものだ。

Q 過去の津波被害のデータから20%以上の被災率から推定されている。過去の津波の被害例はいつごろからのものか?
A 1854年の安政南海地震以降である。徳島県のいくつかの集落で、家全体でこのくらいまで津波がきて流されたという情報が一軒一軒についてある。明治のものも見ている。

Q 最近の事例でないと,記録されていないのでは?
A 集落の家屋数はだいたいわかる。江戸時代の総家屋数は記録されている。時代が違っても被害の状況は大きくは違わない。

Q 今村(1933)昭和三陸津波を引用。
A おそらく頭の中には他の事例もあったが、ここではそういう書き方をしている。

Q 1677年は、江戸時代のかなり前の方であり、1933年の家の作りとは違っているので家屋の被害率の比較にはならないのではないか?
A もちろん近代の事例と江戸の事例はちがうが、昭和8年に津波が来た太郎町は堤防がなくいきなり集落であった。確かに、江戸時代と同じとみなしてよいかは検討の余地はあるが、家屋の被害率に大きな差はないと思う。

 P資料34 205頁 表4
 痕跡信頼度 C,岩沼D
  195頁 Cプラス⁻50センチの誤差 D 1メートルの誤差

 P資料8 5枚目 図5

   1909.3 △震央
   1953.11 △
 P資料7 長期評価 20頁 図は40頁
  「房総沖の海溝三重点付近の地震」

A 1953年 地震がそれなりなのに津波が小さかった
   延宝5年(1677年) 地震小さい 津波大きい
  1909年 地震大きい,津波小さい
   これらは、かなり違う地震である。

Q ここで指摘したかったのは,長期評価では、日本海溝よりの領域をひとくくりにしているが、南のほうはちょっと違うのではというような議論はなかったのか?
A 確かに海溝三重点の北と南では、すべり角がちがうので大きな津波を伴うのはそれほど起きないという見解が前々からあった。海溝三重点の北と南という意味であるが。海溝三重点の南はあまり大きなものが起きていない(*2)。
 海溝三重点は伊豆からスタートする破線が日本海溝と交わる三本の線の合う地点。フィリピン海プレートの下に太平洋プレートがさらに下に潜り込んでいる。一番上に北アメリカプレートがのっている。

Q フィリピン海が入ってきたので急角度で沈み込む?
A うーんちょっとそこはなんともいえない。

1611と1896の発生した位置の関係について

Q 同じ位置と考えているか。
A 1611は南側に張り出ている。慶長三陸沖は福島県の相馬市まで被害があったので同じとはいえない。慶長は北にも張り出していた可能性がある。

Q そうすると北は繰り返し間隔がでてくるのではないか?
A うーんでてくるかもしれない。しかし、100年間隔など明白な間隔があるとはいいにくい。

Q 長期評価では、日本海溝沿いの津波地震については、ポワソン過程で確率を出している。重なりあったところについてポワソンで確率を出していいのかという議論はなかったのか?
A 周期性という明確なものが必要である。ここは、確率は分かっているが,周期性は分かっていないと判断した。
 交通事故が日比谷交差点で起きたとき、明日は起きないとはいえない。三陸ではポワソンに近いと考えていた。

Q 特定海域にすると530年に1回では?そうすると三陸沖も530年に1回?
A 1611を除外すればね。
Q 1896-1611 256年の繰り返し間隔がある。繰り返し間隔があるのになぜポワソン過程で算出するのか。
A 530年に1回はどなたが仰ったのか?そういう数字はなじみがない。

Q 長期評価では三陸沖北部から房総沖800キロで400年に3回とされている。

*2 : 延宝房総沖の波源は、海溝三重点の北である。したがって、この議論は、長期評価の信頼性とは関係がない議論である。

ところが800キロは長いから明治三陸は200キロとすると,4分の1となる。133年に1回×4は530年に1回となり、これが特定の領域における確率なるのではないか。
A うーん私には判断しかねる。三陸沖から房総沖をどこで切るのかについてはっきりしていない。

Q 長期評価の当該記載を確認していただく。
P資料5 長期評価
   13頁 表4-2 備考欄 を示す。
A あ、このことか、分かりました。北から南までどこで起きるか分からないが,1611が起きたのを入れると2回となる。

Q 繰り返し285間隔、発生確率は大きくないとおかしいのでは?
A どれも一理ある。

Q P資料15 事務 
三陸は2回だがポワソン過程で確率を計算するのでいいのか?
A 繰り返し間隔が想定されないかという質問だと思う。しかし、三陸沖だけ高い値で起きて、他の全然起きていないところの発生確率を0にするのはやっぱりおかしい。

Q このように考えることに科学的根拠はあるのか?
A 400年に3回の津波地震は単なる偶発である。だいたい均質な海底地形であり、福島沖で発生しないという保障はない。歴史資料からは、三陸も福島も茨城も条件は同じで、次でどこで起きるとの必然性はない。三陸沖の領域だけで津波地震が更新するとする根拠がない。

Q そこ(推本の長期評価の審議)に座っている人は暗黙の前提共通認識があったと思うといわれたが?

A 深尾先生が低周波地震が北から南まで、ずっと起きていて、同質的な傾向が北から南までつながっていると論文で示された。長期評価を議論する場にいる人はみな知っていたこと。しかし、みんな知っていることだからから書いていない。

Q 深尾神状論文のIゾーンに関して質問する。長期評価の参考文献には記載されていなかったのはなぜか?
A 共通認識だったからだ。

Q Iゾーンの図も長期評価にはのっていない。
A はい。

Q 誰も指摘しなかったのか?のせた方がいいという意見はなかったのか。
A いま思えばそうだ。載せてしかるべきだった。しかし、深尾論文は、みんな知っているから、誰も言わなかった。

P資料7 長期評価 説明 17頁 「2-1」6行目以降
Q この資料にも低周波地震 Iゾーンは記載されていない。実は、Iゾーンは考慮されていないのでは?
A いやみんな頭の中で知ってはいたんだけど。このころどうであったかは答えづらい。  知らなかった人はいないはずである。その時の雰囲気は10何年前のことで、これを今再現することはできない。

Q 石橋説があったが,Iゾーン低周波が議論になってもおかしくないなと思うが。審理の中でIゾーンが議論にあがったことは?
A 三陸沖から房総沖の区分けをするときは議論したはずだ。石橋は1677延宝房総沖のことだが,大部分の人があのときから賛成していなかった。多くの委員が、あれは成り立ちませんといわれていた。

渡邊偉夫先生の論文について

Q 福島県沖にも津波地震が起きているということを示すために渡邊偉夫先生の論文を示して主尋問で証言された。しかし、この図では、日本海溝沿いではなく、陸地寄りで津波地震が起きている図となっている。陸地寄りであることは間違いないか?
A プロットが1890年代からのデータに基づいてなされている。まだ地震計が5~6箇所の時代のデータもある。位置の精度が悪いものが入っている。どのデータが精度が悪いかは調べてみないとわからない。
海溝に忠実に沿っているようには見えないが,まあまあ沿っているというぐらいのニュアンスで見てもらいたい。

Q 福島県沖の地震がいつ起きたのか?
A これは、ちょっと調べ直さないとわからない。渡邊先生は2年ほどまえに亡くなられた。気象庁でずっと津波のデータを整理されていた。今でも、データの追試はできる。

Q 地震発生の場所の精度、年代ごとに変わるのか?
A 明治・大正の観測結果は現代の議論には耐えられないレベルである。P波は簡単にはかれるが、S波は観測が難しい。
      
Q 昭和はまあよいのか?
A まあ。

Q 精度がいいかいえないでしょう?
A (笑)精度も悪いものが入っているなというにとどめる。何かの結論を出すために私の考えを曲げたくない。

Q 福島地裁では渡邊論文を出していない。今回は先生が検察官役に渡邊論文を出された。なぜ福島で出さなかったのか?
A ちょっと答えようがない。福島地裁の証言の時も知ってはいたが、気が付かなかった。今回気づいて出した。考える根拠の一つとして出した。

Q 精度に問題がありそうといわれたが、なぜ精度が悪そうな論文を出したのか?
A 傾向をみるときに全く情報0とおぼろげに分かることからある程度判断できることがある。精度が悪いから0というのは自然を分析するという立場からかけ離れている。自然科学者には、あいまいなものがある研究成果を全てなくすという人はいない。

長期評価が日本海溝沿いの領域をひとくくりにしていることについて

Q 長期評価公表前に日本海溝沿いをひとくくりという考え方はあったのか?
A 深尾論文,わだち(?)論文などの先行する研究をみなさん知っておられた。しかしそこをひとくくりにしたというのは議論の途中でそうしたということだ。

Q 海溝型分科会のスタート時点ではひとくくりではなかった?
A たしかそうですね。

Q いつごろか?
A (笑)ちょっと10何年も前のことはちょっと辛い。

武黒被告人の弁護人 正木弁護士の反対尋問
1611慶長三陸沖地震について

Q 証人は、何度か考え方が変わっていると聞いた。それ自体はそれぞれの時期の資料に基づいて考えているのでいいんだと思うのですが,H25の論文からH27.7福島地裁証人尋問までは1611は正断層型と考えていた。だけどまあおとといは津波地震だと証言された。どこで考えが変わったのかははっきり分からない。
A はい。

Q 考え方が変わった理由は?
A あのね,うん。是非この点はいいたかったことだ。昭和8年の昭和三陸沖は明確に正断層型の地震である。震度5で結構強い揺れがあり、家屋・石垣が壊れた。陸上での揺れが結構強いもので、被害が出た。
他方で、1611年の地震は建造物被害の記載が全くない。宮古,伊達藩などで、石垣の倒壊など陸上での被害が全くない。正断層型なら昭和8年を典型とすると揺れが結構強くないといけない。どうも正断層型とは言い切れないなと考えて判断を変えた。

Q 昭和8年の地震のことはいままでもご存じだったはずである。海底地滑りと考えたときも正断層型と考えたときも知っていたのではないか?
A はい。

Q 材料としては前々からあったものを見直したということか。
A 陸上の被害に着目して読み直した。

Q 第一人者の証人をもってしても,捉え方は異なるということ?
A そういうことになる。そういうことは、しょっちゅうある。

Q 学者さんですから真実をはっきり理解しようとするとあれやこれや考えてみる?
A はい。

Q 第一人者の証人でさえそうだとすると歴史地震に詳しくない他の学者は一義的にこうだと言い当てるのは難しいということか?
A 普段から地質調査,活断層,堆積物をしている人はそれなりに生のデータからの経験がある。微小地震の専門の人はその人のイメージもあるだろう。理科年表のデータ、渡邊氏の津波リスト、別のフィールドに立った人のイメージがあり、他のフィールドからのアドバイスももらい、互いに切磋琢磨をしていく。日本史の人の前で発表しても異論がないというようなことも大切だ。

再主尋問 指定弁護士 山内B

Q 1611の古文書に建造物の被害なしということだが、その被害の記載がないということが直ちに被害がないということに解釈する理由は何か?
A 例えば,公的な建物に被害があった時に伊達藩宮古の代官所にしろ,修復の予算など行政に直接関わってくることは記録に残るはずだからである。そういう記録がないから,被害がないと判断することができる。
Q 当時の行政の関係で建造物や被害者の数など行政に直結する可能性があるので被害があると必ず記録に残るということなのか?
A うん。後の行政が追及するためにも必要な記録は残ると考えられる。人が死んだとなると税金がとれなくなる。
Q 被害者数についても、たくさん方が亡くなるとコメの取れ高にも影響するということか?
A はいそういうことです。

再主尋問 指定弁護士 久保内B

Q 1611年の地震は、いまはおおよそ津波地震とお考えなのですね。何時頃に津波が来たとお考えか?
A 午後2時頃の津波

Q その前の地震の記録は?
A 朝10時頃に1回目の揺れ,いくつか地震,その後津波が来たと言うことである。

Q 地震の揺れによる被害は?
A ない。

Q 1611は津波地震の特徴を兼ね備えた地震といえるか?
A はい。

裁判官尋問 右陪席 今井裁判官

Q P資料18 4枚目 示す
長期評価の審議で証人は、「その可能性はあります。」と応えられている。このような控えめな表現で発言した理由は何か?
A 当時は、正断層型地震と津波地震が半々という考えをしていた。いまは地すべりは100%ないと考えている。この時点から少し後も地滑りの可能性を言及したが,論文書いた直後から「これはないな。あ、しまった」と思っていた。
(11時43分おわり)